神社歴史


由 緒

 当社は、和銅年間(708~715年)に当時の甲斐国司が湖を平地化することを発起し、朝廷に奏上するとともに国造りの神である大己貴命(大国主命)に祈願した上で、盆地南部の鰍沢口(富士川町)を開削し富士川へ水を落として盆地一帯を水田化するという大事業を行い、工事の竣工に際して神助を蒙った大己貴命を勧請したのが創始と社記に伝えられている。当初は黒戸奈神社と称したが、後に朝廷より穴切大明神の神号を賜った。以来、1300年以上の長きにわたり御神徳顕たかな神社として崇敬を集め、江戸時代には甲府城の御門があり穴切御門と呼ばれ、裏鬼門の鎮守として甲府勤番士たちからの崇敬を集めた由緒ある古社である。
 最近は、縁切りのパワースポットとして人気を集めている。 旧社格 郷社

湖水伝説(甲州弁での解説)

 うーんと昔、甲府盆地はでっけえ湖だっただと。ある日その湖を眺めながらお地蔵さんは「この湖の水をとっぱらったらいっぺーいい土地が出来るらにな。ほうすりゃあ皆も喜ぶらになぁ」と考えとうだと。そしてほの考えを二人んの神さんに言っただと。 ほしたら、二人んの神さんも「ほりゃあいい考えどう、すぐやらざあ」と言って一人の神さんはイキナリ山を蹴っ飛ばしただと。ほうしたら、もうひとりの神さんも山にでっけえ穴を切り開けただと、ほうしたら水は抜け出し始めたけんど思ったように水が抜けんかった。 ほの様子を見てたお不動さんが「俺も何か助けてやらざあ」ちゅうて水がうまく流れるように瀬を造っただと。ほうしたら、今度はどんどん水が富士川へ流れ出してみるみる湖底が現れただと。ほの湖底を皆で開墾して豊かな田畑を作っとうだと。
みんなはうんと有難がってこの二神二仏をお祀りしただと。
 山に穴を切り開けた神さんは、甲府の西に穴切大明神としてお祀りし、山を蹴り崩した神さんを蹴裂(けさき)明神として甲府の南の中道町にお祀りしとうだと。ほして、これを考えついたお地蔵さんは、国母地蔵として甲府の東にある東光寺のそばにお祀りしてあるだと。最後に川瀬を作ったお不動さんは甲府の南東にある境川町のフジンタ(地名:藤垈)というところに瀬立不動 として祀られているっちゅうこんだよ。
 今の甲府があるのもこの二神二仏のお蔭っちゅうこんさ。ありがてえこんじゃん。
おしまい



祭神


■大已貴命(おおなむちのみこと)
この名は主に日塞曹紀に軍用いられ古事記では大国主神として用いられた。国造大神、八千矛神、大物主神など、多数の名が存するのほ、これはそのまま、この神が多方面に神徳を現されていたためである。
■少彦名命(すくなひこなのみこと)
大己貴命と協力して国造りを行い温泉を開発、医療医薬、禁厭(まじないで病気や災書を防ぐこと)の法を定めた。酒造の神。温泉の神。

■素箋鳴尊(すさのおのみこと)
丁寧に建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と申し上げる。強さを表すタケ・ハヤに、清浄を表すスサを合わせてあるもので、強いお祓いの神という意味がある。

文化財


■本殿一棟
国の重要文化財
昭和25年8月29日指定 文化財保護委員会
安土桃山に再興とされる。一間社流造、檜皮葺の建造物
■随神門
甲府市指定有形文化財
平成13年3月30日指定 甲府市教育委員会
江戸時代後期の楼門建築




▲ページトップに戻る